アジアで反日暴動が起こるなか、学校の反対を押し切り静岡から渡米:50年前のアメリカ大学留学をリモートインタビュー①

こんにちは、College of Wooster 3年のnatsumiです。先日、1979年にWesleyan Universityを卒業され、現在はグルーバンクロフト基金業務執行理事を務める前田省吾さんへリモートインタビューを行ってきました。


前田さんが米大学に進学したきっかけから1970年代後半のキャンパスライフ、その後のご自身の人生への影響までとても興味深いお話を伺うことができました。アメリカの大学と学生が時代の流れとともにどう変化したのか、また変わらないことは何なのか。また、50年前のアメリカ大学での生活とその後の人生の一例を知ることで、私たちが何か得ることがあるのではと思い今回のインタビューを敢行することになりました。


インタビューをもとに三編に渡って記事を公開していきますが、第一編の今回は留学のきっかけ、受験時代のエピソード、ウェズリアンでの学生生活について。第二編では白人中心からAffirmative Actionに移行した時代の経験から人種差別についての話を、第三編では前田さんの海外大学に通う大学生へ向けたアドバイスについて紹介していきます。


目次:

  • 今回のインタビュー敢行の背景
  • 高校時代: 1970年代のアメリカ大学進学する者など完全にアウトライヤー
  • 大学生活: 日本人は一人、帰国も1度きり。周りの友人に本当にいろいろと助けてもらった
  • 編集者のコメント


<前田正吾さんの経歴>

静岡県出身。藤枝東高校卒業後、グルーバンクロフト奨学生としてWesleyan Universityへ進学、経済学を専攻(Class of 79)。大学卒業直後、Columbia Universityの大学院へ進学し国際関係学で修士を取得。その後野村グループ、ゴールドマンサックス、シュローダーなどで金融のキャリア(ファンドマネジャー)を持つ。現在はグルーバンクロフト基金業務執行理事を務める。


今回のインタビュー敢行の背景

2020年上半期はコロナウイルス流行によってこれまでとは違う大学生活の形態を取らざるを得ない状況になったり、Black Lives Matter のムーブメントが世界的に話題になったりと様々ことが起こりました。筆者自身、人種問題やそこに根ざすアメリカの社会構造について、また自分が大学生活に求めることなどを改めてゆっくり考えてみる時間がありました。


そこでこの夏、シェアブロード運営メンバーの3人で「アメリカの大学と学生が時代の流れとともにどう変化したのか、また変わらないことは何なのか」を当時留学していた方とのインタビューを通じて考察しようというプロジェクトを立ち上げることにしました。


前田さんが大学に通われた1970年代のアメリカの当時の社会状況や大学生活は、やはり今とは全く違っていたそうです。アメリカ大学に行くことで、日本での生活が不利になる。また現地での生活も、現在よりサポートが少ない。そんな状況で走り抜いた大学生活とその後の人生を通し、インタビューの最後には若者たちへのアドバイスもいただきました。ぜひ楽しく読み進めてください。では、第一編スタート!


高校時代:1970年代のアメリカ大学進学する者など完全にアウトライヤー

Q. 静岡の高校から米国大学に進学しようと思った経緯を教えてください。

 中学生のころ日本はアジアでも嫌われ者で、経済的な利益をひたすら追う国民として、主に東南アジアで大きな反発があり、タイやインドネシアでは反日暴動が起こっていました。それがきっかけで日本を外から見てみたいと思い留学を思い立ちました。また自分自身の成長に大きな後押しをするような経験ができると考えました。高2の時に、留学の老舗だったAFSで一年間留学したいと担任に話すと、このままいけば国内のトップの大学に入れるから、アメリカなんかに行かない方がいいと言われ、それを受け入れました。あとで安全安易な道を選択した自分が情けなくなりました。


 高3になるとグルー基金の奨学金があると留学雑誌で知り受験しました。友人の家で宴会に参加したことで担任からは、グルーへの推薦状は書かないと言われ、校長に直訴したこともありました。高校を卒業してから、静岡の英会話学校に行きましたが、そこの外国人の先生からここでは教えられることが限られると言われ、東京の語学学校に行くことにし、外国人と住みながら生きた英語を学べるという広尾の家に住み、昼間はバイトをしながら、神田の英語学校に通いました。


Q. 最終的にウェズリアン大学に進学した決め手は何かあったのでしょうか。

 グルー基金の事務局が決めたので、自分はそれに従っただけでした。留学できればどの大学でもよかったとその頃は思っていました。グルー基金が送った奨学生がちょうど卒業する年だったので事務局がちょうどいいと思ったのと、TOEFLの点数がギリギリだったので、あまり選択肢はなかったです。WesleyanはAmherst, Williamsと並びLittle Threeと言われ、Ivyに次ぐ東海岸の歴史ある大学だという位置づけで、そのころからリベラルでDiversityに富んだ大学として知られていたと思います。


Q. 日本人がアメリカへ留学するということはその当時の時代の雰囲気として、どのように捉えられていたのでしょうか。

 明らかにアウトライヤー(外れ値)でした。同級生の母親に「うちでは大事な息子をとても海外留学なんかさせられない」と母は言われたそうです。グルーの面接でも、帰国しても日本の会社には就職できないと言われました。大学院卒業後、実際に就職した野村証券以外にもCiti Bankからオファーを受けてましたが、そこの東京の社長は日本の大学を出ていないのを理由に、まるで顧客へのお辞儀の仕方も知らないと思われたのか採用をためらっていましたが、アメリカ人の幹部がようやく説得してオファーを貰いました。海外大学を卒業したから優遇されるという雰囲気ではなかったと思います。結局そこの会社はお断りしたのですが。


大学生活:日本人は一人、帰国も1度きり。周りの友人に本当にいろいろと助けてもらった

Q. 当時の学業の忙しさや大変だった部分はどのようなものだったのでしょうか。

 最初の二年は授業についていくのがやっとで、課外活動に取り組む余裕もありませんでした。一年目は寮と図書館を往復するだけといっても過言ではなかったと思います。アメリカの友人から、図書館にこもるために留学したんじゃないだろと言われ、二年目からは勉強しない日を作りパーテイや映画、コンサートに行くようにしました。初めて行ったパーティーの孤独感は一生忘れないと思います笑。英語のコミュニケーション面でも、みんなからの興味としても、ぽつんとしていました。


Q. 大学在学中は、どれくらいの頻度で一時帰国していましたか。長期休暇はどこでどのように過ごしていましたか。

 台湾に語学留学する途中、日本に帰りました。四年間で一度だけです。一番の理由としてはとにかく航空機代が高かったからです。また、せっかくアメリカに留学しているからできるだけそこにいた方がよいと思っていたのもあります。クリスマスは友達の家に招かれ過ごしました。1年目の夏は、虫歯の治療費を稼ぐため、図書館で働きました。2年目の夏はアメリカの東から西まで$50で行くことのできるバスチケットを買い、ガールフレンドとアメリカを横断しました。そのあと西海岸のサンフランシスコから語学留学のため台湾へ飛び、その乗り換えの際に4年間一度だけ日本に帰ることができました。親とはたまに手紙を書いて連絡をとっていました。

coast to coast $50 Greyhound busを使いアメリカ横断中にヒッチハイクで行った

グランドキャニオン 


Q. 口に合う食べ物は学食にありましたか。現在はアジアン料理などを積極的に提供していますが、当時の学食のメニューはどのようなものでしたか。

 食べ放題に驚き、アメリカの豊かさを感じました。カレーライスみたいなビーフストロガノフとか、とにかくライスがある食事が貴重でした。味はそれほど良いとは言えませんでしたが、あの頃は量が大事だったように思います。コッテージチーズは最後まで食べられませんでした。


Q. パソコンや持ち歩くことのできるタブレット等は無かった時代だと思いますが、クラスのための準備はどのようにしていましたか。ペーパー等はどのように書いていましたか。

 ノートに書きとるしか方法はなかったと思います。一年生のころは聞き取りができないので、アメリカの友人にノートを借りました。タイプライターを打ったことがなかったので、ペーパーを書くのには時間がかかりました。


Q. 大学生活一番の思い出は何ですか。

 アメリカの友人達に本当にいろいろと助けてもらったなという感謝の気持ちと、留学してやはり当初の狙い通り自分の成長を後押しできたという達成感もあります。4年間を通して日本人は私一人でしたし、留学生への手厚いサポートなどもありませんでした。その分寮のRA(Resident Adviser)がとても親切にしてくれました。RAがAmerican Politics(アメリカ政治)の授業で苦労していることを知ったとき、教授のところに一緒に行ってくれて、「こいつはバカじゃないんだ、ただ英語がまだ少しできないだけなんだ、何とか配慮してくれ」と頼んでくれて、中間試験とペーパーは成績にカウントせず、Finalで評価すると教授からの特別扱いを引き出してくれました。とにかく様々なバックグランドを持った人たちとの出会いが今でも思い浮かんできます。

格好つけてパイプでタバコ吸っている様子とのこと。

右・インドネシア出身、中央・香港出身の友人


編集者のコメント

長期休みのたびに日本に帰国している筆者にとって、「在学中の4年間で日本に帰国したのは1度のみ、親とは手紙で時々連絡を取っていた。」という言葉が印象的で深くささりました。


インターネットへのアクセスや手元に置けていつ何時でも世界と繋がれるデバイスなど存在しない、加えて留学生への体制なども大学側に敷かれていない時代にもし自分が飛び込むとしたらどう行動するだろうか?と色々と想像してみました。土曜の朝に寮のベッドに寝転がりながら日本のYoutuberたちの動画をみて笑っている筆者はどうなってしまうのでしょうか笑。自分の大学生活がちょいとイージーモードに突入してはいないか?と考えさせられました(特に授業以外の生活面において)。


やはり今よりも日本との物理的な距離、情報の距離がより遠く感じられたのだろうか?と思いつつ、そんな当時の環境での前田さんの大学生活の苦悩が今回のインタビューから伝わってきました。改めて自分のアメリカでの生活を見つめてみるきっかけになりました。


一方で「初めて行ったパーティーのぽつんと感は一生忘れない」「土曜の朝に男子フロアのシャワー室に行くとフライデーナイトに泊まった女の子がそこにいた」など今でもあるあるな話を聞き、笑ってしまいました。パーティーや食堂、寮生活などそれほど変わっていない部分もきっとたくさんありますよね笑。


さて、次回の第二編では白人中心からAffirmative Actionに移行した50年前の経験から人種差別についてのお話を紹介したいと思います。お楽しみに。


20/08/10 natsumi 

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